エッセイという日記

エッセイとは随筆と言われ自分の日常を切り取り、経験を深掘りしながら様々に気持ちを綴るいわばツイート的で日記的だとも思われる内容だとされている。

私は近頃そのようなエッセイをアウトプットする麻薬に侵され始めた様だ…

他愛のないとるにとらない内容を淡々を描き記す、その様なことに何の意味があるというのだろうか…

しかしそこには人間の赤裸々な吐露がある、私がどの程度暴露しているのかそれは、読む人にとって分からないだろうが、6割型晒しているとするならば面白い内容となるのだろうか。

いくらなんでも人は墓場まで持っていく内容を大なり小なりそれぞれが内い秘めて生きているだろう。

それが人間たる人生においての深みとなっていくのだと私は思う。

その様な所が日常の何気ない局面に垣間見れる味を表現する材料となっていくのだと考える。

小説は年を重ねて初めて人生の深みを得た人間の複雑なストーリーを描けるとする、蘊蓄を目にすることがある、

それについては異論なく素直に頷ける。

日々に楽しく過ごしてきた、人に尽くして人の輪を大切にしてきた、人徳のある人物は多くの人に慕われ、多くの人脈に取り囲まれ、高みに行く素晴らしい人格者となり得る。

それが人たる生に徳を積むという事なのだろう。

その様な時間の経過には人との愛に満ちた時間が多くの人との共有の中で多大な幸福感を得られる事であろう。

しかしそれは万人に味わえ得るものではない。

その様な人とは正反対の人格も大勢いるのだ、それ故のコミュニテイにおける構図は様々な場面にて、一目瞭然である事は皆が知る所であるのだが、

何かを作成したり、著したりする人物はその様なコミュニティではなく、自己の世界に固執し、自分と対峙し、思い悩む時間が多いのではないかと思われる、人の観察力は必須にしても人とのコミュニティーに多くの時間を費やす暇は持てないのだ、

それは過去の時間にふんだんに経験した事と病的に向き合った結果に個人の苦悩たるデータが蓄積されたテーマを多く引き出しにしまわれているのだと考えられる。

その様な人はたとえ小さな出来事でさえ、繊細に自分の心で振り分ける作業と共に人を観察し、消化する作業を行なっていると思われる、そうだ普通ではない異常なのだ。

決して普通ではあり得ない、なんの世界であれ、普通である事はある意味幸福な事なのだ。

大衆とは逸する異常者が、秀でる要素を持つ人なのだ、努力をすれば報われるレベルなどは普通の粋なのだ、秀でる人は異能で人よりも特段に酷い疾患を抱え日々に苦悩しながらもそれに対峙して、アウトプットを世に遅れる異常者なのだ。

現代では、推し活と言われる、アイドルとファンの二局の構図の様相となっている。

しかしそれは過去の歴史からも人類の文化において常だった。

幸福の定義は様々で幸福とは些細な刹那に垣間見る事であり、それを求める事自体が愚かな事なのかも知れない。

異常なまでに没頭できる事がある、またぼーっと過ごす日々がある人、様々に存在しており、人間の人生において、意味など見出そうとする事自体無意味な作業なのだ。

とにかく時間を浪費する、その経過にて自分の存在が今何をしているかどのような作業をしているか、それしかない。

そこに意味を求める雑念を排除する事なのだ。

 

動画クリエイター  ブロガー PIXTA 映像クリエイター ドローンカメラマン エッセイスト

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